地図 - デイリーシティ (Daly City)

デイリーシティ (Daly City)
デイリーシティ()は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンマテオ郡の都市である. サンフランシスコ半島の中ほどに位置し、直ぐ北にサンフランシスコ市がある. 2000年国勢調査による人口は103,621人だったが、2010年では101,123人と2.4%減少した. 事業家で町の土地所有者ジョン・デイリーに因んで町の名前が決められた.

考古学的調査ではサンフランシスコ・ベイエリアには紀元前3000年には既に人類が住んでいた. 遅くとも西暦6世紀にはオローニ族インディアンが北カリフォルニアに入っていた. その領土は16世紀初期以降スペインが領有を宣言してきていたが、ヨーロッパ人との接触はほとんどなかった. 1769年、スペイン人ガスパール・デ・ポルトラが率いた探検隊がアルタ・カリフォルニアを植民地化するためにこの地域を訪れ、サンフランシスコ湾の存在を知った. その7年後の1776年、フアン・バウティスタ・デ・アンサが率いた遠征隊がこの地をサンフランシスコ砦の地に選定し、それから間もなくホセ・ホアキン・モラガが砦を築いた. その年の後半にフランシスコ会伝道師フランシスコ・パロウがフランシスコ・デ・アシス伝道所(ドロレス伝道所)を建設した. この拠点を造るために、伝道師達は伝道所から南16マイル (26 km) の土地を穀物を栽培し、牛や羊のための飼料を賄うための領地と宣言した. 1778年、伝道師達と兵士でサンフランシスコからカリフォルニアの他の地域に向う道路に目印を立てた. 伝道所の丘の上に立った伝道師達はサンブルーノ山と海岸側の丘の狭間にラ・ポルテスエラ(小さな戸口)という名前を付けた. ラ・ポルテスエラが後にデイリーズヒルと呼ばれ、デイリーシティの中心となり、現在はトップ・オブ・ザ・ヒルと呼ばれている.

スペインが支配する間、サンブルーノ山と太平洋の間の地域は人が住んでいなかった. メキシコがスペインからの独立を果たすと、メキシコ人貴族が土地の特許を認められて大きなランチョを設立した. そのうちの3つが現在のデーリーシティとコルマ町のある地域をカバーしていた. 1835年にホセ・サンチェスに与えられたランチョ・ブリブリは広さ14,639エーカー (59.24 km²) あり、現在のコルマとバーリンゲーム、サンブルーノ、サウスサンフランシスコおよびミルブレーの各市に跨っていた. 広さ2,219エーカー (8.98 km²) のランチョ・ラグナ・デ・ラ・メルセドはメルセド湖の周辺地域にあった. 3つ目のランチョであるランチョ・カナダ・デ・グアダルーペ・ラ・ビシタシオン・イ・ロデオ・ビエホはディリーシティとコルマの部分に跨り、サンフランシスコ市のビジタシオン・バレーからサウスサンフランシスコまで伸びる面積5,473エーカー (22.15 km²) の地域だった.

米墨戦争が終わり、カリフォルニアがアメリカ合衆国に割譲された後、ランチョ・ラグナ・デ・ラ・メルセドの所有者がサンブルーノ山とメルセド湖の間の地の所有権を主張しようとした. 1853年のアメリカ合衆国政府による測量で、問題となっている地域は事実上政府の資産であり、民間人が取得できると宣言した. このとき開拓者のランドラッシュが短期間起こり、主にアイルランド人が現在のウェストレイク、セラモンテの各地区、およびコルマとパシフィカ市になっている地域に牧場を設立した. その後の10年間で、密度の濃い霧のために穀物やジャガイモが育たないことが増加した開拓者が何軒かこの地を離れた. 残った開拓者はより利益の上がる生業として酪農と牛の飼育に切り替えた. 19世紀後半、サンフランシスコの町が成長し、サンマテオ郡が創設されると、デイリーシティも徐々に成長し、サザン・パシフィック鉄道沿いには家屋や学校が出現した. デイリーシティはサンフランシスコ住人が郡の境を越えてギャンブルと喧嘩をしに来る場所になった. 南北戦争に向う緊張感が高まると、カリフォルニア州は奴隷制擁護派と自由土地推奨者とに分裂した. この論争の中での中心人物はアメリカ合衆国上院議員で自由土地推奨者のデイビッド・C・ブロデリックと、カリフォルニアに奴隷制を広げることに賛成していたデイビッド・S・テリーだった. この2人の間の喧嘩と政争は決闘にまで発展し、メルセド湖近くで行われた決闘でブロデリックが致命傷を負い、3日後に死亡した. この決闘が行われた場所には、2人が立った位置に花崗岩の柱が建てられ、カリフォルニア州の歴史史跡第19号に指定されている.

1906年4月18日、デイリーシティの海岸、マッセルロックの近くで大地震が起こった. 地震とその後の出荷でサンフランシスコ市の多数の家屋が破壊され、家を失った人々はジョン・デイリーが所有していた牧場など市の南の地域にあった牧場に仮の住いを求めた. デイリーは1853年にサンフランシスコ・ベイエリアに来て酪農場で働いており、その数年後には主人の娘と結婚してトップ・オブ・ザ・ヒル地域に広さ250エーカー (1.0 km²) の牧場を手に入れていた. 長年の間にデイリーの事業は成長し、政治的な力も強くなっていた. 地震の後で避難民の波が押し寄せたとき、デイリーなど地元の農家はミルクなど食糧を提供した. デイリーはその後所有地を分割し、その幾つかに住宅地が出来ていった.

この地域に避難民が家を建てるに従って自治体としてのサービスの需要が高まった. このことは、サンフランシスコ市に併合される怖れと、サンマテオ郡の郡庁所在地が遥か南にあったので住民が無視されている感情があったことも手伝い、自治体化の要求が生まれた. 1908年の最初の自治体化の試みはビスタグランデ市としての編入だった. ビスタグランデ市は太平洋からサンフランシスコ湾まで、北はサンフランシスコ市と接し、南はサウスサンフランシスコ市と昔のランチョ・ブリブリに接していた. この提案は計画された市の範囲があまりに広いということで住民に拒絶された. この提案は様々な地域の社会間の亀裂も顕わにし、特に墓地周辺の地域はその後の計画から除外された. 1911年1月16日、自治体化委員会がサンマテオ郡監督官にデイリーシティとしての自治体化請願書を提出した. この市はサンフランシスコ市からサンブルーノ丘陵に沿って伸び、サンフランシスコ市とはプライス通りとスクール通りで境とし、西はサンブルーノ丘陵の頂点までとしていた. この時の推計人口は2,900人だった. 1911年3月18日、特別住民投票が実施され、自治体化提案は132対130票という僅差で可決された.

デイリーシティは1940年代まで比較的小さな社会に留まっていたが、土地開発業者ヘンリー・ドールジャーがウェストレイク・ショッピングセンターなど住宅と事業の主要地区であるウェストレイク地区を造った. 1957年3月22日、デイリーシティは再度大地震の震源となった. サンアンドレアス断層で起こった地震のこのときの震度はマグニチュード5.3であり、ウェストレイク地区の建築物に損傷を与え、ウェストレイク断崖に沿った州道1号線は閉鎖された. 1984年10月、台湾出身のアメリカ人作家チャン・ナンが暗殺された. 襲ったのは中国国民党のエージェントだとされている. 1972年9月11日にベイエリア高速鉄道の駅が開業し、サンマテオ郡北部とサンフランシスコ市およびベイエリアの他の地域とが鉄道で繋がった. この鉄道は後に南のミルブレーやサンフランシスコ国際空港まで延伸された.

 
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国 - アメリカ合衆国
アメリカ合衆国の国旗
アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、United States of America)は、北アメリカに位置し、大西洋および太平洋に面する連邦共和制国家. 首都はコロンビア特別区(ワシントンD.C.).

アメリカ合衆国(United States of America)の頭文字を取って「U.S.A.」もしくは「USA」、合衆国(United States)の頭文字を取って「U.S.」もしくは「US」、または単にアメリカ(America)とも称される.
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